追悼 高山公次棟梁

「またこっちに出てきてえな。ゆっくり会いましょ」
歳の始めに交わした電話が最後になった。
まさか。 2月の初旬、番頭の小河さんからの電話で知った。
高山公次棟梁が亡くなられた、享年75歳だった。

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                 <高山公次 棟梁>
伊勢で仕事をすることになった当初から、高山さんが仕事を引き受けてくれた。
もう12年来になるだろうか。これからもっといい仕事をと思っていた矢先だった。
聞いた途端、胸を射抜かれたようで、今もって信じることが出来ない。
とても安易に書くことなどできなかった。

若い頃は数寄の名匠、大阪の平田雅哉の門を叩いたほどの勉強家だった。
並み居る職人衆に混じり、誰も教えてくれぬ仕事を、横目で見、そばだてて聴く話の片言から腕を磨いてきた人だった。仕事師は仕事を選んではいけないと、口癖のように若衆を叱咤しながら、自身も繊細な丸太仕事から大材までをこなす文字通りの仕事師だった。
私にも負けるものかと、細かな数寄の納まりも諳んじてみせる茶目っ気もあった。その分、配下の職人には厳しく、現場に来るや叱声高らかに、細かな指示を出していたのを思い出す。
いつも毅然とした態度で、どんな人と同席しても自分を変えることはなかった。

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      <左から大工の堤さん、高山棟梁、跡継ぎ息子の岡本さん>
                (図面を引く私を囲んで)
初対面は、高山建設の社長としてだった。
人を見る目もない若気の頃だが、まさか大工と思わなかった。
その初仕事の折り、現場で大工と話込んでいたら、いきなり叱られた。
「わしが棟梁や、仕事の話はわしにしてくれるか」
思わず、はっとさせられた。
社長は組織上のこと、飽くなき大工棟梁としての矜持が発した言葉だった。
当時、すでに仕事は配下の大工にさせていたが、木拾いから材料の手配は、最後までけして譲らなかった。
図面を丹念に読み込み、頭で組み立てながら、木材を一本一本拾い出す。
その意味では、誰より私の図面を真っ先に建築に組み立てていた。
「図面通りに納まるんな。この図面は凄い」
若造の私を持ち上げてくれたことも、懐かしい思い出である。
平田棟梁の元で鍛えた図面の読解力が、設計の仕事を尊重する根底にあったのかも知れない。

ある時、現場の納まりに、どうしても気に入らないことがあった。
もちろん監督や大工が悪いのではない。私が図面に書けなかったのだ。人の知るところでもないが、それでも造形を目指す若造にとっては許せなかったのだろう。
「高山さん、どうしても直したいところがある。何とかならないだろうか。」
私が悪いと白状して懇願した。
甘えもあったろうが、胸を借りる気持ちが強かった。きっと分かってくれる。
そういうとき、高山さんは何もいわずにふたつ返事で、
「承知しました。すぐ直させます」
「気にせんと、思ったことはいつでも言ってえな」
気軽な声で、明くる日すぐさま大工を指図し、手持ちの材を使い整えてくれた。
棟梁としての器と風格に、見守り励まされたのは間違いない。
省みて恥を知るが、大きくうなずき、受け止めてくれた心情に育てられた。

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               <五十鈴茶屋 入口俯瞰>
思えば五十鈴茶屋が最後の仕事となった。
現場を息子の岡本さんに任せ、材料調達の全てを担ってくれた。
使った木材全てで450立米、とてもいち大工で集められる量ではない。四国から九州まで、自ら足で歩いてその目で材料を見、買い付けていた。
図面から使う場所ごとに求める材料の性質を理解し、材ごとの質を見極めた上で選別して振り分ける。厳しい目と確固たる自信がなければ、とても賄えるものではない。これまで築き上げた人脈と経験、知識に裏付けられた鋭い眼差し、人としての懐の大きさに、どれだけ心強い思いをしたか知れない。
「俺がやらずに誰がやる」、仕事へのたぎる執念が、その面魂に宿っていた。
幾度か誘われた木集めに同行できなかったのが、今もって悔やまれてならない。

「先生は好きな建築を思いっきり書いとくれな、わしが木は何とでもするわ」
晩年、会うたびごとにいつもそういってくれた。
木の話になると饒舌に身を乗り出す、楽しそうな姿がくっきり瞼に浮かぶ。
思い返すたび、今も目に熱いものがこみ上げてくる。
色々なことを教えていただいた。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  (前田)

追、高山棟梁のインタビューは、暮らし十職のHPで公開しています。
   併せてご覧下されば幸いです。
   http://www.kurashijisshoku.jp/tech/index.html

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